動物

毛の生えた動物は苦手だ。犬や猫、うさぎやハムスターなどなど。でも、本当の事を言うと心底嫌いというわけでも身体が拒絶反応を出すほどではない。小学生の時にはにわとり小屋の掃除をしていたし、膝に猫を乗せた(正確には乗ってきて身動きができなかった)こともある。それでも動物は無理、苦手、好きじゃないと決めている。一つくらいそういうものがないと本当に心の根底から拒絶してしまうような物や人に出会った時に耐えられる気がしない。常日頃から苦手なものを意識し、苦手なものに対する耐性をつけることで発狂を免れているのかもしれない。むしろ、小学生のころから動物は苦手と言い、その距離をちょっとずつ、本当にちょっとずつ詰めてきているのだから、案外その距離は縮まっているかもしれない。本当に嫌いなものはそうそう思い出さない。記憶の奥にしまって、あったこと自体忘れてしまう方が心は平穏だ。でも決して動物は好きではない。嫌いでもないけれど。

中央線特別快速高尾行き

特快という響きが好きでホームに吸い込まれそうになっていた頃。それに毎日悩まされていた。それは決して消えない。忘れるということは消えることとは別だ。見えなくなると言った方がきっと近い。見えなくなったそれは引き出しで埃のように少しずつ溜まる。知らぬ間に大きな塊になって、突然現れる。それは捨てられない。一度生まれたそれは一生捨てられないのだ。だって、それは自分自身だから。どれだけ遠ざけても自分とは別れられない。いつか箪笥の中がそれだけになってしまわない事を祈りながら目を閉じるしか今はできない。それとの向き合い方はいくらでもあるのかもしれない。もしかしたら減らせるのかもしれない。だとしても、今はそのすべを知らないし、それを大切にしてしまう。捨てられた他人のそれもきっと拾って大切にしてしまう。

皮膚

    目が痒い。飲み会がやっと終わって布団に入る。酒を飲むと眠くなる。当たり前の生理現象。さっきまでうたた寝するほど眠かったのに、ある点を境に眠気が吹っ飛ぶ。こういう日はもう朝まで眠れない。

    夜は嫌いじゃない。部屋の電気を消して暗闇と体の輪郭が見えなくなると落ち着く。明るいと自分の体とそれ以外の境目がはっきり見える。ああ、切り離されている。布団で寝ていようと、風呂に浸かっていようと世界と溶け合うことはできない。不安になる。薬品でドロドロに溶けて土や海と混ざり合えば少しは心が穏やかになるだろうか。形が保たれるから孤独なんだ。好きな人といくら触れ合おうと肌は溶けない。体は一つにならない。皮膚が自分以外の世界を拒む。

お昼寝

    保育園だか幼稚園の頃、お昼寝の時間があった。このお昼寝の時間が嫌いだった。ご飯を食べエネルギーを満タンに充電した僕はすぐにでもそのエネルギーを発散したくてウズウズしていた。子供の頃はご飯を食べる、数時間寝るだけであっという間にエネルギーが朝の状態に戻ってその有り余ったエネルギーへの消費欲が凄かった。だから、毎回タオルケットを重ね合わせ隣のともだちとおしゃべりをして何度も注意されてた。話の内容は一つも覚えてない。ただ、どんな内容でも、こそこそ隠れてー実際は隠れられてないがー話すだけで楽しかった。自分のことなのに何が楽しかったのか分からないことを思い出す。その度にまた一つ歳をとったことを実感する。長生きとはきっと、楽しいことが少しずつ減っていくことだ。あと、いくつ数えたら楽しいことが0になってしまうのだろう。

レバニラ炒め

    焼き鳥屋さんでレバーを頼む人がいるとあんなパサパサしたものどうして、と思う。しかし、不思議なことにレバニラ炒めは嫌いじゃない。特に地元の行きつけの中華屋さんのレバニラ炒めは好物といってもいい。炒める前に一度揚げてあるから食感がいい。味付けももちろんいい。ニラともやしの割合もいい。ニラがもやしに負けているものをニラレバ炒めとは認めない。

    ホルモンやモツはさらに苦手だ。胃腸はブニブニしていつまでも噛み切れない。腸にかぎっては生前、排泄物が入っていたと思うとゾッとする。しかし、ホルモン焼きの炭火でジュウジュウと焼いている様子は好きではある。焼ける音と煙と脂のてかりは食欲をそそられる。 ソーセージも腸詰めではあるがあれはあれ、これはこれである。偏見ではあるが、人の好き嫌いなんてそんなもの。好き嫌いに、正しさも平等も必要ない。 しかし、恋人の地元にはホルモン焼きそばなるものがある。恋人の勧めるものを無下にはできない。ホルモンだけ端に避けるようなことはしたくないし、苦しそうに食べるのも嫌だ。果たして美味しく食べきることは出来るだろうか。