鶏肉のフォーと地元野菜

 翌朝,起きる理由がないとなかなか寝付けない.寝付けないと生活リズムは必然と狂い,目が覚めるともうお昼過ぎ.今日も失敗した.

 

 料理は好きだが,あそこのスーパーはこれが安い.あれを買うならこっちのスーパーというのは苦手だ.そこまで値段を見ていないというか.そのとき出会った美味しそうなもの,安いものを買ってる.特別素材にこだわる訳じゃないが,特別節約を心がける訳でもない.モーニングにフォーを食べようと思っていたお店にランチタイムギリギリに着く.鶏肉のフォーとミニキーマカレー丼のセット.パクチーがトッピングし放題というのが嬉しい.出来ることならトッピングではなくお椀にたんまり取ってサラダとして食べたい.そこはフォーが食べれるレストランカフェが併設してる直売所のようなところ.地元の野菜や卵や加工食品を扱ってる.パン屋もある.何回でも通えそうだ.紫や黄色のにんじん,中がピンクのかぶ,水菜というには太くたくましい勝山水菜.

 

 休みの日は3食きちんと食べるのが難しい.1人だと特に.起きたらお昼過ぎなんて事になれば朝ごはん一食を逃す.そして午前中寝てただけだと起きたての昼は腹が空かない.2時3時に一食目を食べると夜になっても腹が空かずそのまま寝る時間になる."休みの日も3食きちんと食べれる"をゆるい目標にしよう.今はまだ若いから大丈夫でもその習慣がのちのち役に立つ気がする.でも今だからできる不健康を楽しむのも若さの持つ特権だったりするから悩ましい.

いい学校に行っていい会社に就職する

 人生は選択の連続。より良い選択をしてより良い人生を送ろう。将来設計を計画的にして成功させよう。中学受験、高校受験、大学受験、就活、大小様々な選択を子供のころから迫られる。少しでも良いところに。何のために?幸せになるために。頭の良いとこに。就職率の良いとこに。給料の良いとこに。目に見えるいいとこを選んできたんだ幸せになれるはず。でも、アクシデントはいつだって不意に訪れる。なら"良いとこ"を選んできた意味って何なんですか?

 "失敗は成功のもと"というなら成功による油断や過信で失敗することもある。人生ってマルバツクイズのようには行かない。正解か不正解かを教えてくれない。答えのない選択というより、自分で答えを与えなきゃいけない気がする。あの時の選択は良かった、あれは悪かった。

 本当に学ばなきゃいけない生きるスキルは"正解を選ぶ方法"ではない。"自分の結果に丸をつけてあげられる方法"というか。自己肯定に近いかもしれない。肯定ほどはっきりはしていないかもしれない。自分の心がすっきりするかどうか。そんな自己中心的な考え方でいい。

 自分を抑え込んで周りから見て"良い選択"をしても、"自分"が死んでたら意味がない。選択はいつだって自分が生きるための選択なのだから。

繋がる

どこに居ても大切な人たちはそばに居るのだろうなと思うことがある。気持ち的な話ではない。亡くなった人は火葬され骨以外は空気に溶けて漂うし、生きてる人は呼吸をする。生きるために毎日吸っている空気は人で出来ている。知ってる人知らない人。好きな人嫌いな人。大切な人大切だった人。今吐いている息も誰かを生かしている。だから深呼吸しよう。その一息で大切な人を吸っているかもしれない。その一吐きで大切な人が明日も生きられるかもしれない。一歩一歩の前に一呼吸。

ヒトスキアイ

好きとか愛とかを勘違いしていた。いつ終わるかわからない人生。ずっととか永遠を願っても終わりはいつかきてしまう。それが意思による別れか死による別れかの違いだけで行き着く先は同じなのだ。子供連れの家族を見て、病院で寄り添いながら歩く老夫婦を見て、その完成形に向かおうとしていた。でも、初めから完成形ばかりを見ていても仕方ない。本当は今を、明日を大切にし、ちょっとした心遣い優しさを与える方が先なのだ。遠い未来の確約なんてありえない。そういう小さな積み重ねをしてるうちに気づいたら看取る看取られるの関係になっている。そんものなんだろう。

不透明な未来に理想の壁紙を貼り付けて視えているように錯覚する事は今することじゃない。別れがあるというのは諦めでも悲しみでもない。別れがあるからこそ今を大切にすべきだったんだ。少なくともそうすれば別れても後悔は少なかったはず。別れはつらいが、別れるまでに得たものはいつまで経ってもお互いの宝物だ。二度と会うことがなくても、間違いなく宝物だ。

自分の心をちゃんと自分の言葉にするのがきっと苦手なんだ。深く辛抱強く考えずにもうこれでいいやと投げやりになってしまうからいつからか分からないことだらけになってしまった気がする。自分で自分を待たなかったのに、ある時それを待ってくれる人がふと現れた。話があると自分から呼び出しといてうまく言語化できずに途切れ途切れにすごく時間をかけて話しているのに、話が終わるまでその人はただひたすら待ってくれる。何でこんな奴にこの人は時間を割いてくれるんだろう。何かをどうにかして返したいと思ってまた苦しくなることがあった。どうしたらその人に喜んでもらえるか考えたときに、自分なら何をその人にしてもらったら嬉しいかを考えたら特別なことは思い浮かばなくて目の前で楽しそうにしててくれたらそれで十分だなと思って。そしたら、あー向こうもそうなのかもしれないな。というか普段からそれは言葉にされてたなと思い出した。そんな簡単なことで人が嬉しいと思うことを、自分が嬉しいと思うことをずっと忘れていた。苦しいときに救いを求めたくなる。それは自分の手元には無くて運良く見つけるしかないと思ってしまうけど本当はもう手の中にあるんだ。ただ近すぎてそれに気づかないだけで。自分を楽にするものはいつだって既に自分の手元にあるはず。落ち着いて、諦めないで。死にたくなるほど苦しんでる人たち、それでも死なないのは既に救いを手にしてるから、それに気づいてないだけ。

人は変われない。

「人は変われない。」

1人の少女がそう囁いた。

あれは多分、中学の卒業式が終わった3月頃。クラスメイトではあったが学校以外で会うことなんてなかったその子に会いに行った時のこと。はっきりと覚えていないけれど何かを借りに行ったはずだ。駅からその子の家までの道のりで彼女は最近親が離婚したこと名字が変わること離婚の原因の父親のことを話し出した。僕はその後ろ姿を見ながらただついていく。ふと気づくと彼女は立ち止まっていた。彼女は振り返って僕の目を見て、

「人は変われない。」

と言ってまた歩き出した。

その言葉は半分正解で半分間違てる気がした。人は必ず変わる。でも、一度なってしまった自分は変わってもなくならない。一枚の折り紙で何回も違うものを作るように。ぱっと見は違うものでも折り目は消えないし、それに沿って折ればまた過去の形になる。例えそれが目を逸らしたいような嫌いな自分だったとしても、今に繋がる過去を生き抜いたのは確かにその自分だ。他人にどれだけ嫌われようと自分だけはその時の自分の手を離すことはできないのだ。彼女はきっと家族を壊した父親を嫌悪していた。でも、そんな父親でも今の自分を形作ったかけがいのない人だったのかもしれない。

もうその子の顔も声も忘れてしまったが、今でもあの時の目と言葉はときどき頭の中で浮かんでくる。

彼女の目には全てがあって全てがなかった。

自分を大切にできないと、好きになれないと、愛さないと他人を愛せない。依存してしまうということに気付かされた。でも、みんなどうやって自分を愛してるんだろう。怒鳴る大人や許されないことが怖くて、自分は怒りたくないし何でも許そうと生きた。そのために自分を殺して卑下して耐えてきたのに、今の自分を作ってきたのに。今更それを手放そうとしても新しい自分の作り方なんて分からないしそれだけの余裕がない。根本を覆すのは怖い。変わる方向が良いとか悪いとかじゃない。ただ漠然と怖い。